部活動の歴史2

☆高津ハンドボール部アーカイブス☆

昭和30年代中期第1期黄金期

 

 毎年のOBOG会で過去に大阪府第1位となった話が語り継がれていますが、今般私が持っている手元資料により、皆さんにこの辺りの情報をアーカイブス的にお伝えしてご記憶に留めていただきたいと思い投稿します。あえて第1期と銘打ったのは、この21世紀にできるだけ早い時期に第2期黄金期を創りあげてもらいたいという祈りがこもっているからです。

 

1・昭和34年の大阪府大会での2回の優勝

 昭和34年3月に「大阪府新人大会」で始めて優勝の栄冠に輝き、3位がベストの定位置の成績で、常にもう一息のところで涙を流し続けていたハンドボール部の歴史上、初めての大阪府第1位を手に入れることができました。このように、昭和34年は、輝かしいスタートを切りました。

 この高津の新戦力がさらに力をつけて、続く5月5日に「大阪府民体育祭大会」で優勝を果たしました。その戦いの経過は、次のとおりです。

        1回戦   高津19−7住吉高

        2回戦   高津10−2佐野工高

        3回戦   高津 8−7豊中高

        準決勝戦  高津11−6桜塚高

        決勝戦   高津12−9三国ヶ丘高

 

 省みますと、良くて3位が定位置の雌伏の数年間、夏期合宿や日常の練習において、榎本、津田(関学大)中江(同志社大)等の諸先輩が「地獄の特訓」的練習を我々に実施していただきました。特に、基礎練習という辛い足腰強の訓練(スロー・ダッシュを繰り返す時間の長いインターバルラン、兎跳び等)、それに加えて何回も繰返す実戦形式のフォーメーション訓練、これらは文字通り血の小便が出るような厳しいものでした。

しかし、結果としてこの基礎体力をつける基本訓練(地獄の特訓)の積み重ねが優勝という成果に結びついていったものと考えられます。

 これらの猛烈な練習による我等の汗と涙は、高津高のグランドの土が充分に吸い込んでおり、また天はこの猛烈な努力を正当に評価してくれました。

 

2.昭和34年近畿大会は悔しい第3位

 5月の大阪府第1位で「近畿高校ハンドボール選手権大会」への出場権を得て、同月16日・17日の両日和歌山県開催の大会に出場することができました。

 しかし、残念ながら強豪の兵庫県代表の兵庫工高(前年の昭和33年度全日本選手権大会第2位高)に準決勝戦でわずか1点差のビハインドで惜敗し、無念の第3位にとどまりました。

 試合の経過は、次のとおりです。

1回戦   高津16−10市和商高(和歌山第2位)

        2回戦   高津14− 8育英高(奈良第1位)

        準決勝戦  高津 9│5−6│10兵庫工高(兵庫第1位)

                  │4−4│

 なお、我が高津に準決勝で勝利した兵庫工高は、同大会で優勝高となりました。この準決勝戦は、試合前からの雨上がりの悪コンデションのグランドで高津得意のドリブル攻撃が完全に封じられ、また前半試合開始直前のバックスの拙守により、この1点のビハインドを最後まで跳ね返すことができず惜敗の涙を流したのです。

 

3.昭和34年 全日本選手権大阪大会で無念の第2

 同年6月21日の決勝戦において、ライバル高の三国ヶ丘高に先の府民大会での雪辱を無念の1点差で喫し、全日本選手権大会出場の切符を逸しました。

 その試合経過は、次のとおりです。

1回戦   高津シード高として不戦勝

        2回戦   高津 8− 3堺工高

        3回戦   高津17− 9泉陽高

        準決勝戦  高津15−11八尾高

        決勝戦   高津 8│2−7│9三国ヶ丘高

                  │6−2│

 雨中の近畿大会での悪夢の覚めやらない折、またまた今回の決勝戦も雨中での試合となりました。試合開始前に大雨に見舞われ、小降りになってホイッスルが吹かれ、直前の雨でグランドはまさに田んぼ状態で試合が始まりました。近畿大会と同じく高津得意のドリブル攻撃が完全に封印されて、前半は苦戦でした。後半は、雨も上がりグランドもやや乾きだしたため得意のドリブルが効を奏して追い上げに全力を投じたのですが、時遅く後1点のところで無残なゲームセットとなり惜敗の臍を噛みました。

 雨天の悪条件のぬかるんだグランド対応の戦い方についての意識(ドリブル攻撃から短いパス攻撃への戦術転換)に欠けていたのも事実でしたが、同じ誤りの修正のための練習が身に付いていなかったのも事実で、これが同じパターンの敗因の全てであったと思います。

 昭和35年は、34年度の浅野、西原、生野等の強力3年生メンバーの卒業もあり、大きな成果を得ないまま、一つの黄金期が終了しました。

 

4.昭和34年 大阪室内大会も第3位で涙

 当時は、冬季については屋外の11人制から室内での7人制ハンドボールが一般的な時代であり、当然に11月頃からは、7人制の練習をしました。時々は、他の部活から体育館を借りて室内仕様での練習をしました。

 この大会については、手元資料がありませんが、この12月男子ハンドボール室内大会(冬季のみ実施)では、3年生が受験勉強ということもあり、善戦空しく定位置の第3位となりました。もし、どなたか関連資料をお持ちでしたら、OB会事務局にご提出ください。

 

5.昭和37年 第14回全日本ハンドボール大会(高松宮杯)への出場

 この年、社会人代表チームとして、当時高津OBの大学生、社会人の混合メンバーによる「高津クラブ」を結成して、先ず大阪大会予選に出場しました。大阪での予選大会を勝ち抜いていき、決勝戦で社会人チームの「丸紅飯田」に勝利して、高津初めての栄誉ある大阪代表になりました。

 同年8月19日に高松宮ご夫妻を迎えて、山口県下松市・徳山市両市で男子25チーム、女子19チームの全国代表約600人が参加して開催されました。

 我が高津クラブは、第1回戦に法政大学と試合しましたが、勝利の女神に見放されてしまいました。この全国大会に高津OBとして出場したという事実をご存知でない方も多くおられると思い、本誌にてお知らせしたいと考えました。

(なお、この全国大会に係わるデータ関係は、私の手元に有りませんので、残念ながら詳細な経過をお知らせすることができません。もし、デ−タをお持ちでしたら、ハンドボールOB会事務局にお届けください。)

 

6.後記

 今日、「三丁目の夕日」などの映画や各種テレビドラマなどで昭和30年代をテ−マとして懐かしむ風潮がみられますが、この時代の流れの中で、アンテークな高津ハンドボール部の30年代の一端をお知らせしました。

 第1期黄金時代は、上記のとおり竜頭蛇尾で終わりましたが、21世紀に第2期黄金時代を迎える日が一日も早く到来する祈りをこめて、この拙文を発表します。厳しい鍛錬と部員の努力の結集で大きな成果を生み出す実践をしたことは、高津ハンドボール部の歴史の中で価値有る輝き一つのとしてご記憶いただければ幸いです。

 

(高校13期 ピテカンこと渡邊 齊顯)

 

*参考文献  

高津高校PTA新聞(昭和35年2月24日号)、

高津新聞(昭和35年6月?日号)、

高津新聞(昭和35年7月20日号)、

讀賣新聞(昭和37年8月20日号)

昭和30年代中期第1期黄金期 !!!