部活動の歴史3

 

 (平成22)年7月の総会で、今年の「会報」の原稿寄稿の依頼を受け、安引き受けしたものの、ハンドボールと離れておよそ50年、何をテーマにしたものかと、漠然と意識の片隅に置いていたのであるが、3月に入って「部誌」なる冊子が送られてきた。

 送り主は、高津ハンドボール部OBOG会、広報担当副会長の中野元博氏(高26期)で、同窓会館に保存されていた「初優勝記念号『部誌』高津高校ハンドボール部(昭和37年1月発行)」を復元し、簡易製本したものであると添え書きしてある。原本はガリ版刷りで青インクが劣化していて、読み辛いところは修正修復するなど大変ご苦労された様子で、まことにその情熱には頭が下がる思いであるが、同時に「先輩、去年の約束、忘れていないでしょうね。早く書いてくださいよ。」と催促されているようでもある。

 

 昭和37年1月といえば、当時私は高校2年生であるが、この「部誌」なるものに全く記憶がないのである。同期の3人が、これに寄稿しており、そのうちの一人、鈴木君に確認してみたが、「そんな事、あったんかなぁ」という返事であることからして、よくぞこんなもん見つけたものだと感心するばかりである。

 ともあれ、当時の校長や、顧問、先輩諸氏、現役生の寄稿文を読ませてもらったが、これはこれで貴重な資料であることは間違いない。

 高津ハンドボール部の歴史や戦績ばかりでなく、喜びや苦しみなど、それぞれの心の葛藤も綴られており、まことに興味深い。

 

 私は高校15期(昭和35年入学)であるが、部誌から推測するに、高津ハンドボール黄金期の最後であったらしい。

 記録を見ると、高校11期に全盛期を迎えて、5年間くらいは、大阪で常にベスト3を維持していたようである。その間、昭和34年の大阪府新人大会と府民体育大会で優勝、インターハイや国体予選でも常に優勝を争っていた事が分かる。後に社会人や学生ハンドボール界で活躍されたスーパーヒーローが当時のメンバーであった事と、それ以前の大先輩諸氏が、心血を注いで高津ハンドボール部の隆盛にご尽力された賜物であると推察する。

 

 「部誌」は初優勝記念として発行されたものらしいが、何の初優勝記念かを説明している記述が見当たらない。中に「高津クラブの近況」という記事があり、昭和36年11月、大阪総合選手権で大阪クラブに勝って優勝したことが報告されている。これを契機に「部誌」を編纂する事になったのであろう。

 記憶をたどると、私が高校2年の時に、OBで結成されていた高津クラブが大阪府大会において、当時、体育大学出身者で固めていた大阪クラブを破って優勝したことを思い出す。何せ半世紀前のことなので、克明にお伝えできないのは残念であるが、我が高津クラブは学生と社会人の寄せ集めチームであって、常にベストメンバーで臨めたわけでなく、「よく勝ったなぁ」という印象である。メンバーに穴が空いた時、私を含めて現役高校生数名が、駆り出されもしたが、この優勝で、翌年、山口県下松市で行われた全日本総合ハンドボール大会の出場権を得たのである。(私も下松市の大会に、穴埋め要員として参加した事を覚えている。この辺の件りは、昨年の会報誌に高校13期の渡辺斉顕氏が寄稿されている。)

 

 私たちは、現役時代よく負けた。特に3年生が近畿大会終了後に引退されてからの12年生チームはよく負けた。相手が強くても弱くてもいつも接戦の好勝負をしていたように思う。「部誌」の鈴木君の寄稿によると、2年生の秋11月までの戦績は12121分と記録されている。弱小チームに負けると、チーム全体が打ちひしがれた空気に包まれることもしばしばであったが、一方で、この頃は、先輩諸氏の計らいで、大学チームや社会人チームとも対戦したので「むべなるかな」との思いもある。

 

 昭和37年春、高校ハンドボール生活最後の挑戦となる近畿大会予選を兼ねた府民体育大会は、準決勝で宿敵寝屋川高校に敗れたが、3位決定戦に勝利して京都での近畿大会に出場することができた。三位決定戦の相手がどこだったかは覚えていないが、勝利の瞬間、当時の寝屋川高校の中出監督が歩み寄って来られて、「よかったな」と声を掛けて頂いたことは今でも忘れられない。

 近畿大会はまたしても苦手の雨中戦となり、一回戦ボーイの汚名を返上できなかった。対戦相手は京都の洛星高校で、延長に入り、勝機があったにもかかわらず一点差負けとなり、まことに悔しい思いをした。事後談だが、この大会は雨に祟られ、順延続きで決勝まで勝ち上がった洛星は、定期考査にぶつかって棄権してしまったと聞く。「さすが進学校やな、俺らやったらやっとったな」と大笑いしたものである。ちなみに優勝は寝屋川高校であった。

 

当時、高津のライバル校は、寝屋川と三国ヶ丘であり、今と違って公立高校が私立高校を圧倒していた。中でも、我が高津ハンドボール部は、専任の監督、コーチを持たず、優秀な先輩諸氏が指導に当たっている特異なチームで、これも我々の誇りの一つであった。

 私が高校入学後ハンドボールを選んだのは、しばらく様子見した中で、ただ強いだけでなく、文武に優れた先輩を輩出している事を知ったからである。もっとも、私自身は、徐々にハンドボールの虜となって、文を置き去りにした事をいまだに悔やんでいるが、それでもクラブ生活から学んだことは計り知れない。

 

 私が1年生の頃は、先輩のユニホームを持ち帰って洗濯したり、練習後は一つ一つのボールにワセリンを塗り、用具の片付けをしたり、初めの頃は練習といえば体力作りの基礎練とボール拾いが日課であった。これに反発する仲間も居たが、私は比較的従順であったように思う。

 夏の合宿について、部誌に先輩方も書かれているが、今思い出しても地獄のような一週間であった。水は飲むな、腰を下ろすな、そして炎天下で部員の数より多い何倍もの先輩が、入れ替わり立ち代りノックやランニングを強いるのである。終わると息も絶え絶え「ありがとうございました」。

 苦しくも残酷な合宿であったが、このOBの情熱こそが高津ハンドボールの伝統を作り上げたのだと思うのである。その後、さらにOBOG会が充実し、現役を守り立てようという機運の下に、今日の会に発展したものである。

 

 私の現役時代は、中江義雄氏(高10期)、浅野和郎氏(高12期)、林 毅氏(高13期)という錚々たる先輩が学業の合間を縫って指導していただいたものであり、生意気を承知で申し上げると、三人三様の個性的な指導方法は、私にとって貴重な経験であり、今でも血肉の一部になっていると確信している。

物の本によると、「孝」という字は、「老」に「子」を合わせたものであり、老、即ち先輩・長者と、子、即ち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶというところから「孝」という字が出来上がったと解説されている。そして先輩・長者の一番代表的なものは、親であるから、親子の連続・統一を表すことに主として用いられるようになったが、本来は「孝」とは親に孝行という意味だけでなく、先輩・後輩と長者・少者の連続・統一がなければ進歩・発展がないということを表している、とある。

 私たちは、高津ハンドボールクラブに所属し、先輩・後輩がますます絆を深める機会を大切にしたいものである。

 

 私がこの原稿を書いている時は、東日本大震災の報道が、ちょっと落ち着いた頃である。同期でOBOG会にも顔を出している、福島県いわき市在住の西本由治君の安否について、先輩の中江さんから、鈴木君を通して「西本と電話が通じた。無事である」旨の第一報を頂き安堵した次第であるが、一方で、粘り強く連絡を取らなかった自分を恥じ、この歳になって又一つ先輩に教えられたのである。

 

 良き師、良き友を得ることは至福の極みであるが、その意味においても私が高校でハンドボールを選択した事は大正解であったと今更ながら思うのである。

 

(高校15 岩瀬 政治

 

☆ 高校ハンドボール生活の果実  

 松村・鈴木・西本・三木・奥村

 黒岡・今村・今中先生(顧問)・岩瀬

昭和376月(高校3年)近畿大会後に撮影